無謬性の神話に包まれた科学久しぶりに「バカの壁」をパラパラとめくっていると、温暖化に対する官僚の態度で気になる記述があった。これを読むと科学を盲信することの危険性について官僚たちが全く考えていないことがよく分かる。ペットボトル行政の誤りなどに対しても、それを絶対に認めようとしないが、そこには組織の体質そのものに致命的な欠陥があるのかもしれない。
養老 孟司「バカの壁」より(改行は任意)
最近、私は林野庁と環境省の懇談会に出席しました。そこでは、日本が京都議定書を実行するにあたっての方策、予算を獲得して、林に手を入れていくこと等々が話し合われた。そこで出された答申の書き出しは、「CO2増加による地球温暖化によって次のようなことが起こる」となっていました。私は「これは"CO2増加によると推測される"という風に書き直してください」と注文をつけた。するとたちまち官僚から反論があった。「国際会議で世界の科学者の八割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。しかし、科学は多数決ではないのです。
「あなたがそう考えることが私は心配だ」と私は言いました。おそらく行政がこんなに大規模に一つの科学的推論を採用して、それに基づいて何かをする、というのはこれが初めてではないかと思う。その際に、後で実はその推論が間違っていたとなった時に、非常に問題が起こる可能性があるからです。
特に官庁と言うのは、一度何かを採択するとそれを頑として変えない性質を持っているところです。だから簡単に「科学的推論」を真理だと決め付けてしまうのは怖い。
…(中略)…
ただし、それは推論であって、真理ではない、ということが大切なのです。なぜこの点にこだわるかといえば、温暖化の問題の他にも、今後、行政に科学そのものが関わっていくことが多くなる可能性がある。その時に科学を絶対的なものだという風に盲信すると危ない結果を招く危険性があるのです。
付け加えれば、科学はイデオロギーでもありません。イデオロギーは常にその内部では100%ですが、科学がそうである必要はないのです。
科学妄信時代と疑似科学の隆盛現代社会には、科学に対する無防備な信頼が形成される土壌がある。現代では科学的であることがものごとを決めるときの絶対的な判断基準になることが少なくない。しかし、科学を過信しずぎることは余りにも危険なことだ。科学は絶対の真理ではないのだから。むしろ、間違いを認めることこそが科学たるゆえんでもある。官僚や役人のように「無謬性の神話」など科学には必要ないのだ。
カール・ポパーは科学と疑似科学の線引きに反証可能性を提唱している。当たり前の事だが科学は間違えることもあるのだ。科学がおかした過ちは、優生学にルイセンコ学説、ノーベル賞を受賞したロボトミー手術など枚挙に暇がない。
私なりにポパーの哲学を解釈すると、科学はトライ・アンド・エラーによってなりたっているということだ。トライ・アンド・エラーは、ポパーの著書名『推測と反駁』からも見てとれるし、彼の提唱するピースミール社会工学にもその思想の一端をうかがうことが出来る。
科学を絶対的なものと信じたときから、それは宗教となり、イデオロギーとなる。科学は価値中立だが、宗教やイデオロギーは人の主観や価値判断といったもから決して自由にはなれない。だからこそ、宗教は人の主観や価値観を擁護するための砦ともなる。カルトに対して私は強い警戒感を抱くが、宗教自体を否定することはしない。しかし、政治が介入したり、絶対的なイデオロギーに転じてしまった科学は、早晩、疑似科学化し、災いを招くことになるだろう。
すでに温暖化対策と称してバイオマス燃料の開発を推し進めた結果、穀物価格が暴騰し、発展途上国の飢餓や貧困といった形でしわ寄せが出ている。温暖化の被害は途上国ほどひどくなるとも言われているが、彼らを救う気など全くなかったことがこの事例だけでもよくわかる。これでは今の温暖化対策は飢餓を加速させるためにやっているとしか思えない。
国策「コーンラッシュ」 あおりで穀物価格急騰 飢餓人口4億人増えるう予測もバイオ燃料が地球にやさしいというのは大ウソ温暖化対策を推進するものたちにとって、温暖化対策が与える負の側面については余りにも無頓着過ぎはしないだろうか。コペンハーゲン合意のような厚生経済学の観点から言えば、温暖化対策の優先順位は下位になり、途上国に対する医療やその他の政策が重要となる。当たり前のことだが、お金は有限である。その使い道は限られている。温暖化対策に回した分のしわ寄せが、どこかででるのは必然のことだ。
閉じた社会のエントロピー問題養老孟司は「ああすればこなる」という言い方で、頭でっかちになった現代人が陥りやすい机上の空論による危険な行いを警告している。新潟県中越沖地震でも、想定外の規模だったようだが、何事も計算通りいくこの方が少ないと思う。間違いに気づいたら、その都度、訂正してもらいたいものだが、原発業界は、とくに「無謬性の神話」が強いのだろう。昔も今も隠匿体質に変わりはない。
放射性廃棄物入りドラム缶、横倒し 原発が写真公表 2007年07月21日クローズドなシステムでしか存在できない放射性物質を扱うのだから、自然と隠匿体質にならざるを得ないのだろう。もっとも原発に限ってはたった一回の誤りが国家の破滅にもつながりうるから、「無謬性の神話」に固執せざるを得ない運命なのかもしれない。原発を扱うリスクは二重の意味で危険を伴っている。大事故のリスクや放射性物質の管理はもちろんのこと、ポパーの提唱する「開かれた社会」の敵となる運命を抱えているということだ。
非居住区のような「閉じた社会」を必要とし、組織的な隠匿体質を生む土壌が形成されている。そこに放射性物質だけではすまない危険性が隠されている。原発産業は透明性とは無縁の世界だ。危険なものを扱えば扱うほど自然とそうなる。普段の道路で放射性物質が運搬されることを知っている人がいたら不安を抱く。それが人情というものだ。
開放系のエントロピー論と「開かれた社会」の哲学閉鎖系のエントロピーは熱的カタストロフィーから逃れられない。しかし、地球は開放系である。「水の惑星」はすぐれた廃熱システムにより、エントロピーを広大な宇宙へ廃棄しているのだ。放射性物質はその開放系の社会に閉鎖系のシステムを生むという意味でも、危険な存在だ。ところで、開放系エントロピー論といえば槌田敦氏の名をあげることが出来る。
分野は異なるが、槌田氏の理論はポパーの「開かれた社会」とどこか通底するものがあるのかもしれない。まだ私の力量では彼の理論を消化するまでには至らないが、徐々に学んで生きたいと思う。カタストロフィーをもたらすのは温暖化ではなく、閉鎖系をうむシステムそのものにある。「無謬性の神話」に固執し構造的な腐敗に陥った官僚や組織的な隠匿体質を抱えた原発産業は、閉じた社会が抱える共通の問題を抱えているのかもしれない。