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疑似科学と相対主義

疑似科学とニセ科学
「ニセ科学入門」というホームページでは、ニセ科学が受け入れられる理由として「科学らしさ」をあげている。詐欺的なニセ科学商法においては、検証が不十分なものに「科学的」と名づけるだけで、あたかも、「科学的に検証済み」かのようなお墨付けを与えてインチキ商売を行っている。


これと同じことが社会科学の分野においても当てはまることが多い。社会「科学」とあるが、果たしてどこまで科学的かというと相当な疑問が生じるだろう。特に、社会学などの分野においては、憶測としか取れるような、疑似科学的な言説が頻繁に飛び交っているのをしばし見かける。怪しい言説をもとに国や生徒からお金を騙し取るのだから、ニセ科学と五十歩百歩だろう。


心理学は脳科学の協力もあり、だいぶ科学らしさを取り戻してきてはいる。そして、今ではフロイトの研究のほとんどがインチキであることが分かっているが、当時フロイトは自らの思想を科学的世界観とさえ呼んでいた。マルクスもこれまでの社会主義を空想的社会主義と呼び、自らの社会主義を科学的社会主義と呼び峻別した。その結果、マルクス主義は「科学的な」お墨付けを受けたイデオロギーとして世界中を席巻した。


『ニセ科学は、信じたいと願っていることを提示してくれる。一部の人にとっては「信じたい」と「信じる」がほぼイコールなのだろう。それは一種のニューエイジ思想だが、そこから市民運動とニセ科学の結びつきが生じる。


市民運動家には、原発の悪い点、大企業の悪い点、大規模開発の悪い点、そういうものを提示してくれる説は信じて、そうでない説は信じないという傾向がどうしても見られるのだが、イデオロギーに合う説だけを受け入れるなら冒頭にも書いたようにルイセンコ事件の縮小再生産版みたいなものである。』

「ニセ科学」入門より一部抜粋)
 
極端な相対主義の弊害

Science and "Fake Science" Hal Tasakiより一部抜粋)

『ここで、「ニセ科学」の問題からは少しずれるが、科学と科学教育の観点から、極端な相対主義と呼ばれる考え方について議論しておきたい。相対主義というのは、何らかの主張の真偽や成否は、絶対的には決まらず、文化的・社会的な背景に応じて決まるとする考えの総称である。


実際、「麺類を食べるときに音をたててよいか」といった問いには絶対的な答えなどない。答えは、明らかに、文化的・社会的な背景に依存する。しかし、科学と非科学の境界が確実でないという事実から一気に飛躍して、科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「真実」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。


相対主義的な主張は、口当たりがよく、また表層的には個性を重んじる「進歩的な」香りがするためか、社会に広く受け入れられやすいようだ。反科学や「ニセ科学」を助長する「理論的基盤」となっている感がある。極端な相対主義の悪影響は、実は、理科教育の場にも及んでいる。これは「ニセ科学」以上に深刻な問題である。(中略)ここに述べられているのは、要するに「科学とは人が(勝手に)作ったものだ」という考え(社会構築主義的科学観)である。
(中略)
実は、極端な相対主義を思わせる考えは、教育指導要領にも浸透しているとの指摘をシンポジウムの会場で受けた。これはきわめて深刻な事態だと思われる。いったい、なぜ、これほどに相対主義がはびこるのかは、検討を要する問題である。


堅実で地に足のついた知識を身につけそれに基づいて発言することの困難に比べたとき、物事を相対化して権威をあっさりと否定する論法の安易さが一部の人たちにとって魅力的に映るのかも知れない。あるいは、「科学は万能で誤らない」という誤解をもっていた人が「科学は決して万能ではない」という事実を知ったとき、一気に極端な相対主義に走るということもあるのかも知れない。』


 
文化相対主義への逆風
稲葉振一郎『経済学という教養』より一部抜粋)

『「文化相対主義」は人間性について、その多くは社会的、文化的に形成されたものであり、生物学的な要因は弱い―とくに人間の心的な性質については、脳の中で精神作用をつかさどるようなところは可塑的で、生まれたときは「白紙」のようなものであり、その白紙への書き込みは文化、社会主体でなされるもの、と考えてきた。


だからたとえば「ある部族の言語には時間にまつわる語彙がなく、それゆえ彼らは時間の観念や感覚を持たない」とか「ある部族の言語には色の名前が四つしかなく、それゆえ彼らは四種類の色しか見分けられない」といった神話が、まことしやかに流通してきた。


しかしこのような神話は、近年次々に打ち壊されてきている。人間の脳は決して「白紙」ではなく、人間の持つ性質・能力のうち意外に多くの部分は、あらかじめ遺伝的にプログラムされており、その範囲内での「文化的相対性・多様性」であると言える。


何より、人間の文化の多様性の核と見なされてきた言語についての近年の研究は、一見でたらめに多様に見える言語は、ある一定の法則に従っているらしいこと、また人間の脳には言語活動に特化した特定の部位がある、つまり言語能力はかなりの程度遺伝的で先天的なものであること、などがわかってきている(この辺についてはたとえば、ドナルド・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』新曜社、スティーヴン・ピンカー『心の仕組み』NHKブックス、酒井邦嘉『言語の脳科学』中公新書などを参照)。』




(Lyuko Rin 16より一部抜粋)

『これは自分の不幸を社会構造など他者のせいにして、社会が変わらなければ自分の不幸は解決しないと見たり、「弱者」であることが「善」であるような「『弱者』の論理」とは、決定的に違う。ニーチェが指摘したように、こういう思想はニヒリズムを呼び寄せる。マルキシズムという「『弱者』の論理」の失敗が、現代思想に見られるような(システム社会論などの)相対主義や懐疑主義を呼び寄せたのも、このせいだろう。


 ものを考える上での、方法としての懐疑や相対化は必要な場合もあるだろうし、私もそれまで否定するつもりはない。しかし、相対主義や懐疑主義になってしまうと、それはいわば、そこから先に進むことなく固まってしまった思考の放棄のようなものであり、「『弱者』の論理」が呼び寄せたニヒリズムであるに過ぎない。これは私の感覚からすれば「思想」とは呼びがたい。私だけでなく、一般の感覚からいっても、人々が思想や哲学に期待するものは、ニヒリズムなどではないと思うからである。』

theme : 疑似科学
genre : 学問・文化・芸術

comment

Secret

>科学と非科学の境界が確実でないという事実から一気に飛躍して、科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「真実」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。

そうでつねぇ・・・結局は、社会、国家の都合のいい仮説を真実として置換するシステムがあり、それが普遍的だと思う人間が多い限りは人文科学的な相対主義はやまないと思うでつよ
その相対主義の急先鋒になってるのが冥王星のような教師でもあるわけだけどね・・・
人間の理解の射程は当然、各人違うわけだが、本質的な理解というものを深めれば深まるほど普遍性から乖離してしまうという罠があるので、深く追求しない素地もあるとは思う。でもそうやって単純化、適合化しないと社会秩序が保持されないという証拠もないんだよねぇ・・・
まぁ、冥王星は、そもそも共産主義思想を否定しない人間でありながらも、マルクス主義の「科学的社会主義」というジャンリングにケチつけてる部類だから、こういうのは好きだけど、一般向きではないかもね・・・
冥王星もなるべく普遍性、科学性を追及しようとする立場だけど「どこかで概ね」科学的証明ができない部分での論及の甘さがあるという認識もあるのだけど、より厳密に本質的に何かを伝えようとするととてもじゃないけど、「他人に教えることってできないほど、情報量が多くなる」・・と思ってるでつよ
意味不明な話でつが、冥王星は自分の思考限界の浅さを含めて科学的思考の努力をするでつよ

「論」と「証拠」のバランス

コメントありがとうございます。私のイメージだと、科学は「論より証拠」を求め、一方、人文社会科学は証拠とかよりも、どう感じたかとか、そういう主観的なものの見方をどう言葉に表すのかに重点を置いているような気がします。だから、証拠のない論は確かめようがない。でも主観による根拠だけはある。その根拠と感性だけで、芸術なんかは、なんとかして言葉で表すしかない。だから、どっちも大事だ。道徳や愛なんかんも科学よりも感情の問題だし、「水からの伝言」だとか、わざわざニセ科学を利用する必要もない。


物事は程度問題で、なんでもバランスだと私は思います。過ぎたるは及ばざるが如し。何事も極端なことはよくないこと。

行き過ぎた相対主義は、観念「論」に傾きすぎた結果なのかもしれません。思想も現実と余りにもかけ離れていれば、そりゃ齟齬も大きくなる。理想は理想として、そこから、現実に訴える地に足の着いた思想にできなければ、人々の共感は得られない。

マルクス主義を含めてあらゆる思想に対して、科学のふるいにかけるとしたら、ポパーの言う「反証可能性」のテストに厳しくさらされる必要があるでしょう。


そもそも民主主義の人民主権にしても、マルクス主義のプロレタリア独裁にしても、一部の代表者によって統治するしか物理的に不可能です。人民だとか労働者たちによる直接統治なんて絵空事だ。何万人もの人が一同に会して議論などできない。その結果が一党独裁の欺瞞でした。

スイスは直接民主制で、国民投票が盛んですが、議会もしっかりとありますし、なんといっても国家の規模が小さい。大勢が集まって討論するのも物理的に不可能なことだから、日本のタウンミーティングが形だけに終わったのも無理はない。


社会科学も、これからもっと科学らしさを受容する過程でいろいろと大変な時期に来ているのかもしれませんね。心理学と脳科学が近づいたり、社会学が情報技術やネットなどにより大規模データベースを活用することによって、大きく変貌を遂げようとしている。
私はそんな社会科学の科学化がこれから進んでいくのだろうなと思います。相対主義の失敗をかみ締めながら、しばらくはその反動が起こる気がします。そして、また傾きすぎたらバランスをとる、そんな気がしています。

はじめまして、菊池先生のブログなどで思考を深めさせていただいている、ニセ科学批判者の末席にいる柘植と申します。

一つだけ、きちんと把握しておいていただきたいことがあります。それは、自然科学は自然現象、あるいは自然法則という「人間の手では変わらないもの」を対象とする学問だということです。地球の引力の計算を間違えてマイナスを付けて「斥力」と表記したところで、我々は地球から放り出されたりはしませんし、「引力をやめて斥力にしよう」と全人類が心から願っても、引力は引力のままであるわけです。

実は、この「自然科学は人類が変えることのできない自然現象・自然法則を解明する」ということが、自然科学の普遍性を生むわけです。つまり「人が変えることのできない絶対性」の概念を伴うということです。

ニセ科学が蔓延する背景は、人がこういう「普遍性」を社会生活の随所において求めている事にあるのだろうと思うわけです。社会学などの人文科学に置いても自然科学ほど「絶対的」ではなくとも「普遍性」をもつ、すなわち「基本的に変わらない」とされるものはあるのだろうと考えていますが、社会で生活する人に、なかなかきちんと提示仕切れなくなっている面が有るように思うわけです。その結果として、人が自然科学の持つ「普遍性・絶対性」を様々なシーンで「借りよう」とする事が、ニセ科学の蔓延を引き起こしている様に見えるわけです。

主客一致問題

コメントありがとうございます。確かに、そうかもしれませんね。その普遍性というのが、昔は宗教にゆだねられていたのかも知れません。現代では、その普遍性を担保するものとして、科学が用いられてます。

しかし、その普遍性・客観性というものは、果たして、社会科学の分野ではどこまで追及できるかというと、これはかなり難しいことだと思います。まずなにより、人を扱うのだから、主観の影響は逃れられない。

脳科学などは、いままで、科学が苦手としてきた、主観や意識の問題に取り組んでいますが、これはハード・プロブレムだと思います。同じようなことが、社会科学においても、当てはまると思います。


どうしても、その主観というものが入るから、社会“科学”とはいいながら、イデオロギーや政治の道具として成り下がってしまうことが非常に多いように感じています。価値判断を行う学問として唯一許されているのは、倫理学だけだと思います。

哲学の世界では、いわゆる主客一致問題が重要なテーマとして取り組んでこられたのだと思います。この主観というものと客観というものをどうすり合わせるかは、意識を扱う脳科学と同じような難問を抱えているのかもしれません。
社会問題などに対する客観性は、統計が取れるものに関しては、計量的アプローチとして研究がなされていると思います。一方、いわゆる社会学などにおける質的アプローチは今、非常に困難な状態に置かれているように思います。

沢山の初めての情報

 こちらのHPでは、いつも沢山の新しい知識を得られます。
 今回も、フロイトのあの極端な研究のほとんどがインチキである事を知って、やっぱりか!と思いました。
 本当に、疑似科学の類は氾濫していますね。
「CO2地球温暖化説」もそうですし・・(笑)
>一部の人にとっては「信じたい」と「信じる」がほぼイコールなのだろう。 
 ・・確かにそうですね。そして、その「一部の人」が、馬鹿にならない人数で狂信的です。

 質問ですが、
「極端な相対主義」の弊害も議論の通りだと思いますが、具体的にどんな事をさして「極端な相対主義」と言っておられるのでしょうか?


 またまた余計なお世話を言わせていただきますが・・・
 一つ一つの記事が長すぎて、考えながら読まなければならない内容なので、読むに際して覚悟が必要です(笑)。
 書かれているほうでも時間をかけて良く調べ上げてアップされていらっしゃいますね。だから、間隔が空くのは当然です。
 例えば今回の記事も
1.疑似科学とニセ科学
2.極端な相対主義の弊害
3.文化相対主義への逆風
4.総論
と、細かく4回に分けてシリーズで3~4日に1回アップしたほうが、書くほうも読者も楽ではないでしょうか?ブランクもあまり長くないし・・
 かく云う私も、自分のブログ、<雑草の言葉>について、元雑誌の編集長で現フリーランスの友人から、同様なアドバイスを戴き、読者を増やしました。余計なお世話、失礼致しました。勿論、方針がおありでしょうから考慮なされなくても結構です。


Favorite song のリスト増えましたね。私は、HR系やHeavy なBlues Rock が好きなので、半分以上(8割方?)はかなり楽しめると思います。
Yardbirds もまとめてアクセスしやすくして戴き、有難う御座います。
 Eric Clapton  のForever Man は、出た当時、MTVで見て、一発で気に入りましたが、まだ、ヴィデオデッキを持っていなかったか、録り損ねたかでした。ホントに久々に、懐かしく愉しめます。有難う御座います。その後Claptonは、アコースティックの世界に行ってましたが、アコギのクラプトンはいいとは感じず、それ以来ほとんど聞いていませんでした。(笑)
 あと、こちらを訪れる前に映像として見た事を覚えているのは・MontroseのI Got the Fire くらいでしょうか。ほとんどお宝映像ですね。

普遍化を忌避する相対主義(ポストモダン思想)

田崎晴明さんのHPでは、相対主義の弊害が教育にまで及んでいるとありましたが、私は学校での具体的な例を知りません。

ただ、フェミニストらによるジェンダーフリー運動や、ニューエイジ思想あるいは中沢新一らによるポストモダン思想の影響を少なからず受けていたオウム真理教事件など、相対主義的なものの見方が影響していると思われる事例は少なくないと思います。


科学はどこまでも普遍性を求め、そこから法則を導き出そうとします。近代は科学万能主義とともに、始まったようなところもあると思います。

しかし、1980年代ごろになると、近代主義に対する批判あるいは近代主義の行き詰まりを克服するための思想として、「多様性」や「歴史性」を主張するポストモダン思想が生まれました。人や社会の問題は、単純に普遍性を当てはめられる世界ではないと。それはそのとおりだと思います。


ポストモダン思想は、普遍性を相対化するための手段として相対主義を掲げました。物事を相対化してとらえる考え方は、日本人には割りとおなじみのもので、「喧嘩両成敗」とか、「どっちもどっち」とか、あるいは、白黒はっきりさせない、「あいまいさ」とかに見て取れます。絶対的な神様をあまり信じていないなどの宗教心の薄さともどこか関係があるのかも。


しかし、相対主義は普遍化を拒む理念です。だから、普遍性を追求する科学からは、だんだんとかけ離れ、疑似科学化するのも時間の問題だったのだと思います。

その結果が、性差は生得的なものではなく、文化的なものだけで決まるとか、そういう極論を主張をするフェミニストたちの運動です。フェミニズム運動は他にもロマン主義やマルクス主義の影響も受けているといわれています。(http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign84.html


ポストモダン思想が掲げた相対主義によって疑似科学とかした社会科学は、学問として再出発する必要があると思います。しかし、それは簡単なことではないと思います。いまさら、教授が学生に向かってウソでしたと言うこともできない。これまでの既得権としての教員ポストも、何千、もしくは何万とあるでしょうし、簡単には解決できない根深い問題を抱えていると思います。後は若手の学者が立て直すしかないのでしょう。


これが現時点での私の理解ですが、まだ、勉強不足なので、どこかに間違いもあるかもしれませんし、細かいところにまで把握できていませんが、一応こんなところだろうと思っています。

教育現場での相対主義

 お返事有難う御座います。
 なるほど、日本人には割りとおなじみの「どっちもどっち」などの「あいまいさ」が相対主義ですか。それを極端にした考え方は、沢山ありますね。宗教心の薄さはかなり関係あると思います。
 でも、おっしゃるように、「多様性」は、必要なことです。
 「普遍性」の程度についても〔社会科学〕と言うものの定義自体から入る必要があるし、〔自然科学〕の「普遍性」ほど、厳密になり得ないかも知れませんね。

 学校での「相対主義の弊害」とは、評価における部分だと思います。今流行の
「ナンバーワンになれなくても、オンリーワン」
的な考え方でしょう。私は、その評価の仕方は必ずしも弊害だとは思いません。それぞれの能力に合わせた評価、能力や個性に合わせた評価は難しいけれども、出来る範囲でやってもいいと思います。
 個人の相対評価とは意味が異なりますが、実際の教育での評価は、成績でも入試でも、相対評価の面が大きくあります。


 只、本文にある
>極端な相対主義の悪影響は、実は、理科教育の場にも及んでいる

 と言うのは、気になりますね。理科教育でそんな事が起こっているのでしょうか?

その後の
>科学とは人が(勝手に)作ったものだ」という考え

なんて事が一般の学校の理科教育でなされているとは考えにくいと思います。
でも、私はその意見に賛成の部分もあり、

『ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した』

という中学校あたりの理科教育は間違っていると考えています。
 リンゴ云々という逸話の部分はどうでもいいのですが、私は
『ニュートンは万有引力を作った』
と言うべきだと考えていました。わざと『作った』なんて、反論を呼ぶ表現をさせて戴きましたが、
『ニュートンは、万有引力を定義した』
と云うべきです。『万有引力』というものが存在するかどうかはわからない事で(誤解を承知で言うなら、万有引力の存在はどうでもいいことで)、それによって、力学の体系がしっかり構築出来るという事が大切です。
『ニュートンは、万有引力を発見した』
という事を多くの人が本当だと信じた事により、物理学は、一時期止まってしまったのです。
実際、「重力質量と慣性質量の脈絡のない一致」を疑ったアインシュタインたちによって、万有引力の法則は否定されたわけですから・・・
と、ここで『相対性理論』が登場するところも、いいタイミングですね(笑)。


Favorite song で、
・The Black Crowes  Remedy    や
・Jimi Hendrix    Watchtower
などが、見れなくなっていますよ。繋がる場所が変わってしまったみたいです。
・Montrose     I Got the Fire
は、日本人がアップしたみたいで、途中地震情報の字幕が出てくるのが面白いです。私がかつて録画した番組と同じかも知れません。
この後に、DIO のヴィデオクリップも見れて、歌も演奏も上手いのですがクリップが笑えていいです。
 

身の丈を知る

物理学というのは、どこまでいっても近似ですが、実社会において非常に役に立つ近似です。この便利な道具立てがなければ、ここまでの文明は築けなかったと思います。

ただ、築いたのはバベルの塔だろうか。それともガラスのお城だろうか。911のテロにしても、あんな巨大なビルに大惨事がおきたときに、消防士は階段を使って火を消しにいきました。こんなばかげた話はないと思います。私は高層ビルを見るたびに、思い上がった人間の愚かさを感じてしまいます。


ニュートンの法則は地球表面上においてはほぼ成り立つけど、ウラシマ効果のように宇宙旅行には当てはまらない。
相対性理論にしても、さらにそれを包括した統一理論があるはずだということで、アインシュタインも研究を続けいていました。

物質も分解していくと、分子から原子、さらには素粒子とどんどん進みました。
今では実験的に検証することも難しいような理論によって、物理学も形而上学に近づいてきています。


ドイツの諺に、「人はみな、自分の靴のサイズで物事を計る」とあります。


アインシュタインもこう言いました。「身を切るような体験を通して、私たちは学びました。合理的な思考をしたからといって、社会生活に生じる問題がすべて解決できるわけではない、ということを。」

人間の身の丈にあった文明というものをもう一度考えてもいい時期なのかもしれませんね。

人類は身の丈を知るべきですね。

TheorySurgery さんは
>高層ビルを見るたびに、思い上がった人間の愚かさを感じてしまいます。 
 
 との事ですが、私も同じく人間の思い上がりを感じると同時に、その愚行の結果取り返しのつかない事が起こりそうだと、恐怖も感じます。
 世界貿易センター跡地にまた同じようなビルを建てようというのは、アメリカの威信でしょうか?反省がない感じで、怖さを感じます。

>人間の身の丈にあった文明というものをもう一度考えてもいい時期 

に大賛成です。
 私はそれは、最終的には、小コミュニティ毎に自給自足出来るレベルと考えます。自然の循環にそった持続可能な社会。
 ビルの高さで言えば、エレベータ等を付けないで、階段で済む高さ
 
 残念ながら、大きな環境カタストロフィーが起きないと、人類はそれに気づかないでしょう。
 そこのところに早く気づいて欲しいというのが、私のブログの大きな目的のひとつです。

心の構造に関する、一風変わったトンデモ科学のホームページがあるのですが、よろしければ、ご批評願えないでしょうか?

拡張する「身体」としてのメディア

ノースさん、こんにちは。面白そうなホームページですね。後でゆっくり見させてもらいます。私が思うに、心脳問題はサイボーグの研究などが多くのヒントを与えるのではないかと考えています。


一番、難しいのは主観の問題だと思います。主観を外に取り出すといったことをサイボーグは行わなければなりません。山海教授の開発したアシスト型のロボットHALなどは、これに近いと思います。
http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000743


「動け」と思うと、その筋肉に生体電流が流れるわけですが、HALでは、その微弱な電流を読み取り、足の不自由な人の動作をアシストしたりもするようです。


主観を外にいかに再現するかといった試みは、感情などは難しいと思いますが、動作といったことになるとすでにサイボーグなどで実証済みだと思います。少し前に、人口眼球だとか、義手義足などのサイボーグの番組がNHKでやっていたのを見ましたが、あれは脳の研究にも役に立つのではないかと感じました。倫理の問題というか、神の領域を汚すみたいで抵抗も感じなくもありませんでしたが。主客一致問題は哲学的にも重要のようですね。
プロフィール

TheorySurgery

Author:TheorySurgery
社会科学と疑似科学の際どい境界線を探りながら、文系と理系の学問の乖離やらを考えています。分光学を視点として温暖化懐疑論も展開してます。

温暖化論を学ぶための入門用ホームページつくりました。↓ ご意見承ります。
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